ぴーがぶたまご日誌

いい加減なひとが、自分のメモ用にいい加減なことを書く

ハラスメントについて ・相互理解の話

さて、うってかわって

今回は最近自分がもやもや思っていたことを言語化したいと思った。ハラスメント、「○○ハラ」のお話


ハラスメントはいろんな枕詞を持って我々の前に姿を現す。一番はじめにセクハラ、次いでモラハラパワハラアルハラなんかが来て、最近では鬼滅ハラ(きめはら)なんてのもあるらしい。

この○○ハラの基準、根幹を成すものはなんなのだろうと最近考えていた。今日では様々なものに簡単に使われている言葉になっているが、何でもかんでもってわけじゃない。かと言ってセクハラとパワハラの境界線みたいなのが明確にある感じもしない…という事を考えていた。


はじめに私はハラスメントを行う人を『嫌な奴』と置き換えた。セクシャルやな奴パワーやな奴…かなりしっくり来た。基本的にハラスメントは、立場や地位のレベル差によって起こると思う。上司→部下、目立つ人→大人しい人、男→女。時と場合によってそれが逆転することもあり得るだろうけども、人と対話するのに、個人対個人じゃなくて、立場や環境を介して攻撃的に物を言うなんてやな奴だ。そんな人…いるなぁ…なんて思いつつ。

ハラスメントというよくわからない外来語で変にお茶を濁したりせず、「○○やな奴」と言うことで、ハラスメントをするという行為の抑圧にもなるのでは?と。これは素晴らしいぞ。


しかしこんなことがあった。前にその話をある人にしたことがあった。彼は大学で講師をしているのだが、「でも俺こないださ、○○ってやつにあなたはセクハラですってキレられたんだよなぁ」と言ってムスッとされた。

そうだよ、お前はやな奴だよ。自覚無かったのかよ。と思ったが、ここで私の前述の理論の穴に気づいた。


ハラスメントは基本的にする側の無自覚によって起こるのである。ハラスメントを単に言い換えるだけでは意味が無かったのだ。これは困った。

そこで私は考えた。ハラスメントをする側だけじゃなく、された側双方の立場から演繹しなければいけないのでは?


例えば「体罰」がある。教師が生徒に暴力なんていうのはしょっちゅうニュースになったりする。

しかし、今ではそんなにないかもしれないが、スポーツの現場では体罰は常習化されている場合もある。

そしてその中でも「愛の鞭」なんて言葉もある。ワイドショーなんかで体罰の話になると、決まって飛び出すお決まりフレーズだ。

体罰容認派の人は、「あの時の先生のビンタが、俺の為に本気になってくれてると感じた!だから私はここまでやってこれた!」なんて言っている。

じゃあ体罰っていいことなのか?我慢しないといけないのか?


答えは…どちらとも言えないである。

あるいは時と場合による。

なんじゃそりゃって感じだが、本当にそうなのである。

先生に暴力を受けることを不当に感じる人、生徒のことを想うあまり思わず手が出た先生、ただひたすらに生徒を怒りの吐口にする先生、先生から受けた愛の鞭で更生した生徒…

みんな同時に存在するのが人生の難しい問題であり、奥ゆかしさである。


つまりこのことからハラスメントが表面化するのは、これらの立場の中にある個人の人格に対する理解が不足した、あるいは無視された結果だと思う。

相互理解の欠如が原因なのだ。


あえて相互としたのは、ハラスメントは起こしてしまった側に非があることは勿論だが、被害にあった人も仮に同じことを仲の良い友人や恋人が行った場合ハラスメントに感じるだろうか?という場面もあるだろうからだ。

少し言い方が悪いが、ハラスメントを受ける側と言う立場で相手の事情を顧みず、力無き強者になろうとする場合もあるだろう。


相手無視のハラスメントは決して容認してはならない事態だが、相互理解の不足によるハラスメントは些か悲劇的である。

鬼滅ハラなんて言って騒いでいる人も、もう一度「ふーん、鬼滅ってそんな面白いんだー」と鬼滅ファンと今のブームを楽しむくらいの心の余裕が欲しいものである。