ぴーがぶたまご日誌

いい加減なひとが、自分のメモ用にいい加減なことを書く

宗教の話

最近、とは言ってもここ1年くらい、宗教というものを信じられるということをとても素敵で羨ましいことだと思うようになった。


私は宗教の話を聞いたり調べたりすることが好きだ。しかし別に熱心ではない。

実家は曹洞宗、つまりお寺の檀家だ。

曹洞宗は全国的には少ないが、関西圏では商売人なんかを通じて割りかし多い。まあ浄土宗、浄土真宗真言宗日蓮宗臨済宗なんかと並び称されるメジャー大乗仏教だ。

あとの特色としては坐禅宗なんて言われるくらいお坊さんの修行が厳しく、お経も「ハンキリキリバッタン!」(?)みたいなやたら呪文的でメロディアスなフレーズが特徴で、法事なんかでボーっとしているとビックリしちゃったり思わず笑ってしまったりするのだ。いや、本当に申し訳ございません。


と、ここまで書いたが、私は前述の通り熱心な信者ではない。信心深くもない。

けどそれって私だけではなく、そういう人ってかなり多いんじゃないだろうか?大人になって身内が亡くなる頃に、「あ、ワテらの宗派ってどこどこなんや」って知る人も少なくないんじゃないかな?だいたいみんなそんな感じだと思う。


さて、本題に戻ると、私は宗教を信じられる人を羨ましがっているわけである。

宗教を信じる人達には、その宗派の教義が自分の行動の価値判断基準になる。

それはいわゆる倫理的な、道徳的な価値観の話であり、自分の目標や日々の行動規範でもある。

キリスト教イスラム教、ヒンドゥー教とか色々あるけど、彼らはみな彼らの許容範囲で私などよりはきちんとそれぞれの神様を信じているだろう。そして神様からのご加護を実感しているのだと思う。


私は自分で言うのも恥ずかしいが、なかなかアバンギャルドな人生を送っていると思う。敷かれたレールの上を走るなんて!なんて大それたもんじゃないけど、他の人に私の人生を送らせるのは大変だなと思う。沢山の人に迷惑をかけている。

だからふとした時にとても不安になったりする。自分の人生はこんな感じでいいのだろうか?今死んだら、「あー、まあまあ情けないけど面白い一生だったかな」って言えそうだな。でもこの先もそう言えるかな…???

とか色々考えたりする。私は幸いにも友人にはとても恵まれていて、いい人ばかりなので、私が人生の路頭に迷ってニッチもサッチもブルドッグならば親身に相談に乗ってくれるだろう。

それで充分素晴らしいし幸福なことだと思うけれども、そのみんなや私にもっと厳格な価値判断基準があるととても説得力があるような気がするのである。

宗教ってそう言う時すごく助けになるんだろうな…作品や発想のテーマにする時にも、信心ってすごい力になりそうだしな…


多分私をふくめて日本人って日本人教なんだろうなと思う。

日本人が何となく許容して来た「日本人的な」「ヤマトダマシイ」「大和撫子」みたいな感じである。

けど、これからの時代そういう封建的な感覚の支配から抜け出して、個性の時代になっていく。上司と部下、親と子みたいな枠組みが無くなってフラットになるのは魅力的な気もする一方、なんの加護もなく個性だけで生きていくというのは暗海にイカダで飛び出すようなもので、些か不安を抱かずにはいられない。(ちょっとダジャレ)

最近SNSやワイドショーの論調が妙に刺々しく攻撃的なのは、こういう時代が移り変わっていくことで生まれる不安が、ポツポツと姿を見せているという気もする。


外国の人がリバティー!って生きていけるのは、たくましく自己実現出来るのは、宗教っていう最後の駆け込み寺があるからじゃないのかな?

もう日本人教の熱烈な信者である私は、今更他の教徒にはなれない。

そしてこういう難しい時代だからこそ、私は明るく楽しく生きていきたいのである。