ぴーがぶたまご日誌

いい加減なひとが、自分のメモ用にいい加減なことを書く

オッサンを実感した話

先日、友人宅で飲み会をした。

友人は大学時代のサークル仲間であり、歳はバラバラである。


男29歳A←彼の家で飲んでいる

私27歳

女24歳B

女22歳C


の4人であった。大学の仲間なら年齢差おかしくない!?となるが、それはこのサークルがちょっと変なだけである。


そのうち、Cが終電で帰らなければならないと言った。あと1時間ちょいである。じゃあその間なんかするか、となって丁度AのiPadからYouTubeの音声が流れていたので、じゃあCが帰るまでにCの好きだと思うアーティストをYouTubeで流してみて、Cに判定してもらうゲームをしようということになった。


私は勝てる!と思った。私の中には女子=このアーティストという方程式があったからだ。

先にAが曲を流した。椎名林檎の「丸の内サディスティック」であった。

ヤベェ!コイツも初っぱなからガチで勝ちに来てる!やられた!と思った。

しかしCの反応は微妙であった。

お?これはイケる???

私は切り札、YUIの「チェリー」を流した。私の青春時代と言えばこれ。私の中高時代は女子はみんなカラオケでYUIみたいな声でYUIの歌を歌っていた……

しかしCは「う〜ん、まあ確かに…」って感じだった。しかも最後までYUIを"YUKI"って言ってた。


絶望であった…めのまえがまっくらになった………

そしてBはCの彼氏が好きなアーティストが好きなんじゃないかと予想し、ポルノグラフィティをかけたが、それもあんまりだった…


我々はその後も果敢に挑んだが、尽く破れさった。

遂に我々は負けた…遂に観念してCに聞いた。「Cちゃんは何が好きなの?」

そしてCが流した曲は…


『女王蜂』………!!!!


負けた…完全に………頭にじの字も思い浮かばなかった…これがネオンジェネシスか…


椎名林檎とかYUIとか、今思えば加齢臭の塊であった。女王蜂…その響のなんと艶やかで瑞々しさを孕んでいることか。


第二ラウンドをそのヒントを頼りに決行するも、もはや我々の牙城はボロボロであった。見当はずれの曲を流し続け、最終的にCの選んだアーティストは「SEKAI NO OWARI」…


我々のライフは0だった。これ以上動くことすら出来ないほど粉微塵にされ、自分がオッサンであると言う現実を突きつけられた…


最後に私はセカオワという回答を受けて、

WANDSの「世界が終わるまでは…」を流した。

そしたらCは

「わからない…」













^_^


シンエヴァを観てきた話〜この映画のネタバレは不可能〜

先日、シンエヴァを観に行った。

『ネタバレ厳禁』と言うプロモーションで話題になり、敬虔なエヴァ信者は厳格にその規律を守ったためSNSで視聴の感想などが全く現れず、遂に公式から「もうちょいネタバレしてくれてもええんやで」と信者に折れたのが記憶に新しい。

しかし、実際観た感想はと言うと、ネタバレ云々かんぬんと言ったことではなく、まずあの内容、密度を言葉にしてしまうことすら野暮と言った怪作であった。

まさしく20数年における、エヴァンゲリオンの歴史、平成サブカルの集大成的内容で、庵野氏の人生の集大成であった。それを未視聴の人に文字や言葉で伝えても、理解することが不可能。と思った。だからこれからもネタバレする人など現れないと思う。


一方、観た人はみなこの「シンエヴァ」について話たくなるような、暫くその話しか出来なくなるような妙な中毒性があることは確かで、その辺は流石庵野秀明である。内容が100%理解できずとも、オタクの習性と琴線を熟知した、不特定多数の同志の為の映画!と言うイメージは観た人みんなに伝わっていると思う。魂の映画でした。

是非、自らご視聴することをオススメします。観なきゃ後悔するとは決して言いませんが、観たらすごい人生豊かになります。と言う感じになる映画でした。(観る前に全てのエヴァ作品を視聴しておく事も併せてオススメします。)


さて、ここからはエヴァ小噺というか物づくり小噺になるんですが、エヴァは先程平成サブカルの集大成と言ったんだけど、エヴァの「見た事なさ」感ってやっぱり色んなクリエイターに影響を与えたんだろうなと思って。

特に作戦のBGMとか、ATフィールドが発動する音とか、エヴァが走る時の音とか色んなバラエティ番組で使われているし、みんな知ってるけどまさかアニメのBGMになると思わなかったような曲を使う、意表をついた挿入歌とか。ヤケにメタ臭い演出とか。映像作るのが好きな人が思わずマネしたくなる要素で溢れてるなぁと。

在りものをカッコ良く使っただけなのに、もうそれ自体がエヴァを意識しちゃう物になったのも多いと思う。

第九とか、明朝体とか、カードをスキャンする行為とか。

汚されちゃった…汚されちゃったよぉ……

はーれるや、はーれるや


けどそれって物づくり的にとても健全なことだと思う。物づくりする人って言うのを分解していくと、みんな大なり小なり「拘り」「オタク」「衝動」「ちゅきちゅきパワー」みたいなモノを持ってると思う。物づくりをする人がみんながみんな世の中の為を思って作品を作っている訳じゃなくて、少なくとも自分のやりたい事が物づくりだからそれを実行している訳で。そしてその中でもちゅきちゅきパワーってすごい重要なファクターがあって、好きな作品のマネをしたりされたりって言うのは本来普通っていうか物づくりってそう言うもんじゃん?みたいな。で、それで「コレって○○だよね?お前ホンマそれ好きやなぁ〜」って盛り上がるのが物づくりの人は好きなんだよねー。みたいな。


だからみんな誰かナニナニをパクッた!なんて目くじら立てて怒らないで、「お前ナニナニ好きなん?俺も〜〜!!」って同志として盛り上がってあげるのがいいと思うな。そうして社会現象にまで盛り上がったのがエヴァだと思うし、健全なオタクだと思うのよね。

コレが、『人類ぽかぽか計画』全てはカラーのシナリオ通り…

阪神開幕3連戦を終えて

やった〜!阪神優勝や!!

と毎年言わなければいけないのは阪神ファンの教義なのであるが、それにしても今年は六甲おろしが遂に阪神に追い風になったような、優勝不可避のような状況になってしまっている。


第一に強い。

ハッキリ言って強い。

かつての阪神の選手のイメージってレジェンド吉田義男氏から脈々と受けつがれる、巧打タイプか小兵伏兵タイプの選手のイメージが強い。そしてそういう人が人気だった。川藤がレジェンドになるっておかしいだろ。どう考えても。

2010年代以前の阪神のドラフトは、第二の赤星タイプ、鳥谷タイプを好んで取っていた。俊足よりの万能タイプの幻影を追い続けていたのだ。赤星は赤星。鳥谷は鳥谷なのである。歴代最高峰の俊足、歴代最高峰の守備力を持つ選手はオンリーワンなのである。そうポンポン出てこない。赤星と鳥谷は偶然にもポンポン出てきたのであって、そんなことはプロ野球の長い歴史上奇跡の出来事である。

そしてドラフトで小兵を獲得し、大砲をトレードや外国人で補うのだ。かつては広島は阪神のファームと言われていた笑広島の中心選手を強奪し、旬の過ぎた生え抜きとトレードするのだ。そして外国人からバースの再来()を乱獲していたのだ。しかし広島は近年プライドを取り戻し、強豪になった。また、バースは未だにプロ野球シーズン最高打率を持つ現人神である。そんな奴をまた取ろうとしてどうすんねん。神のお告げで帰るぞ。

とまあこんな感じだったが、近年のドラフトでは大砲タイプや素材型を取っていく傾向が強くなった。SBやカープの育成方針を参考にし始めたのかも知れない。江越、高山、北條なんかはきっかけさえあれば一軍で活躍できそうなポテンシャルはあるし、大山はセ・リーグを代表する大砲に成長した。

そして攻撃力に全振りする余り、かつての面影が吹っ切れる程に守備が壊滅し、リーグ最多失策の栄冠を手にするのだ。やはり関西は「お笑い」も大事にしている。

しかし、これは去年までの阪神である!

今年はつおい!!!


開幕オーダーは次の通り

1.近本 中

2.糸原 二

3.マルテ 一

4.大山 三

5.サンズ 左

6.佐藤輝 右

7.梅野 捕

8.木浪 遊

9.藤浪 投


強い…こんなに強者感あるスタメンは2005年か2011年以来ではないか。そして控にも糸井や江越がいるのだ。つおい。

そして何よりも怪物佐藤輝の存在である。OP戦の暴れっぷりは異常なレベルであった。だから開幕はヤクルトから執拗なマークを受けてイマイチ振るわなかったかも知れないが、それでも大事な場面でホームランを一本打っている。ヤバイ。そして佐藤輝が下にいることがヤクルトのプレッシャーになったのであろう。サンズが大暴れした。よって開幕三連戦はぶっちぎりに気持ちいい勝ちっぷりであった。このまま弾みをつけて優勝へ!という感じである。


そして2個目は

今年のレギュレーションがめちゃくちゃ阪神向け!ということだ。

今年はなんと言ってもコロナ対策による9回打ち切りというルールの影響が大きいと思う。延長を見越さないというのは、試合のテンポが非常に早くなるということだ。事実阪神はこの三連戦長くても先発はガンケルの6回が最長で(セの他球団も広島大瀬良の7回が最長)、中継ぎをフル稼働させている。まあここは絶対に開幕カードを勝ち切りたいという矢野監督のメッセージでもあり、毎試合こうするという訳ではないと思うが、それでもこういう試合は増えてくると思う。つまり投手のロングリリーフが減るために、投手力がそのままチームの強さに直結するのだ。阪神投手力は高いチームである。(守備が壊滅的なだけ)そして甲子園はめちゃくちゃ投高打低の球場である。これは非常に阪神有利である。

そして今や阪神の最大の弱点はさっきから再三言っている守備難であるが、それも上手いこと投手のメリットとの相互作用で補完されている。なぜなら、投手がよく替わるということは同時に野手も替わると言うことであり、木浪やマルテの守備に不安があれば、もうマルテの打席が回ってこないタイミングでマルテの打順に中継を入れ、その後守備固めの選手を入れればよいのだ。守備が拙い選手から早めに守備機会を減らせるのだ。ハッキリ言って阪神はまだ巨人のように先発完投型の選手が投げ切り、鉄壁の内野陣で進塁を許さない、美しい野球は出来ないと思うので、そのようにガムシャラ戦法で突き進んで欲しいのである。コレが阪神補完計画…全てはバースのシナリオ通り………


最後に谷間ローテの存在である。

これも先程の話に微妙に関連しているのだが、去年のペナントは最長10回まで、そして開幕が遅れたことによる、交流戦なしオールスターなしCSなしという全日程同一リーグ戦かつ休養期間なしの過密日程となった。そして浮き彫りになったのは谷間エースの重要性である。いつもならオールスターや交流戦の合間のオフに、投手の調子を見てローテーションを調整できるのであるが、去年はそれが無いので裏カードに強い投手が用意できないチームはあれよあれよと裏で負け続けてしまったのだ。これが水曜日重要説である。故にセは先発が強い巨人、パは中6日ローテーションに拘りがないSBが優勝出来たのである。そしてその中でも食らいついていたロッテは、谷間にベテラン唐川が奮闘し、ぼた餅的な勝利を稼げていたので、大健闘の2位になれたのだ。

今年、阪神開幕投手は藤浪であった。これはまあ藤浪にハッパをかける意味や、ファンの期待に応えるなど色々あると思うが、実は矢野監督は裏ローテを強化させるという目論見があったのではないか。次回の広島戦の先発は西勇輝である。西勇輝は実質阪神のエースだと思うので、この説はあるで。ほんまに。



と言うわけで、以上が阪神優勝不可避説の全容である。

しかし、「やった〜!阪神優勝や!」は非常に関西で有名なフレーズであるが、それの元ネタはサンテレビのローカルCMであり、その後の台詞は「なんや…夢か…」であることを追記しておく。

関東の笑いと関西の笑いの違い

最近、東京のお笑いと大阪のお笑いの違いを結構認識できるようになってきた。

とはいえこの感じは、多分みんななんとなく感じていることだと思うし、概念として認識はしているのではないか。

なにしろ、私も東京に来てもうすぐ7年になるが、これまでも幾度となくそのような感触に触れてきた。

なんというか、友達なんかと一緒にいて、みんな笑ってるし面白い状況なんだけど、一方でみんなは大笑いで私は小笑い、私は小笑いでみんなは大笑いてな状況である。

これ、上京してきた方々はむちゃくちゃ共感してくれるんじゃないかな…??


以前お笑いフィルターの話で、それぞれ笑いのツボが違うという話をした。この定義でいえば私がお笑い音痴という話になるかもしれないが、そもそもこのツボはどのような人生を歩み、何を享受してきたかによるものが大部分である。お笑いは大きな枠組みの内輪ネタとも言ったが、出身地やどこで誰と何をしてきたかも笑いのツボの構成にすごく重要なのである。

だから、東京と大阪でお笑いに違いができる。では、その違いとは何なのか?


結論から言うと、東京のお笑いは「人柄の笑い」で大阪のお笑いは「構文の笑い」である。これは芸人のお笑いの話ではない。一般生活における、家族や友人、職場なんかでの話である。


東京の方は、誰が何を言ったか。期待したものを期待以上に出してくれるか。が笑いのツボにしていると思う。

重ねて言うが、別にこれは芸人の話ではない。東京人のあなた!あなたが友達と話す時こういうタイミングで笑ってないだろうか??

「ほんっとに○○は××だな〜」

「それなー!!」

である。ある意味自明の笑いというか、パワーの笑いである。笑いどころは面白い人のタレント性に比重が置かれている。誰が見ても面白いシンプルなお笑いである。


大阪の方は、この状況ではコレ!あのセリフにはこのセリフ!というあるフォーマットに則って笑いを共有する文化である。

「なんでやねん!」「すなー!」などに代表されるいかにもお笑い的フレーズがあるのも特徴で、「なんでやねん」なんて役がそろえば誰が言ってもおもしろい必笑フレーズである。そのフォーマットを重要視する分、そのフォーマットからの裏切りを笑いの軸にしている。お笑い勉強家である。


両方とも突き詰めればどちらも間違いなく面白いものである。しかし、現実には両者は水と油とはいかないまでも、根本の部分で決定的に相容れない。それは何故か。


それは双方のメリットデメリットがお互いのメリットデメリットに反作用するからである。ここから先は少し難しい話になる。

東京のお笑いは、キャラクターで笑いが起こる。一般の友達関係でいくと、お笑い担当の彼、彼女らはお笑い担当であるから、おもしろいという感じだ。根本的に関東のコミュニケーションは、グループの中の役割にそって話が進み、それぞれの役割通りに振舞うのだ。キャラクターでおもしろいとされているから役割的に笑っているので、その人の発言者の意思、主張がおもしろフィルターによって阻害される現象がある。ここらへんはかなり実生活で感じる人も多いのではないか。関東の人は自発的なお笑いや気付きのお笑いが苦手である。

大阪の人は、お笑いの構造的な部分が笑いのツボである。そこにあるのは笑いのルールやフォーマットだけで、人間関係のアレコレは希薄である。そして、関西の方は深い人間関係の構築に拘る傾向があり、お笑いというのはコミュニケーションの手段の一つであり、人間関係の役割に応じるためのものでは無いのだ。だから関西の人は、キャラクターで笑うことや見たことがないお笑いが苦手だ。自分のテリトリーに意固地である。そしてそういう役割に拘らず、意固地な部分が、関西人=ガサツみたいなステレオタイプの関西人像を生んでいるのだ。(ここにもキャラクターの笑いがあるともいえなくもない)

東京の人と大阪の人のコミュニケーションにおける役割分担の認識のズレが、つまりお笑いのズレにあると思われる。


ここからは仮説だが、東京と大阪はともに大都市であり、人口も非常に多い。それはもう一生地方で暮らしている人が一生で出会う人の人数よりも、彼らが1日ですれ違う人が多い程の大都会である。

だから今まで話したことは、おそらく彼らがその異常な数と触れ合う上での工夫、アプローチの結晶だと思うのだ。

東京はその膨大な人間関係においてその人物の性格、役割を簡略化、デザインした。

大阪は膨大な人間の中でコミュニケーションや価値観を特殊化することで集団を個別化させてきのだ。


最近はコミュニケーションに関して様々な問題提起がされているが、このような土地柄ごとのお笑い観を認識してみるのもおもしろいのではないかと思う。

ちなみに私がお笑いのネタでそれらを考慮することは一切無い。

そんなに器用な人間でないし、面倒くさ過ぎるからだ。


QUEENの話

私はQUEENが好きだ。勿論あの世界的ロックバンドのことである。


出会い?は昔々私が小学生の頃吉本の芸人がやっているラジオのハガキでQUEENの「Killer Queen」のサビで「ガンバ〜レタブチ〜」って聞こえるみたいなやつがあって、それが我々兄弟がそれにめちゃくちゃウケて一大ムーブメントになったので、親か誰かがQUEENのグレイテスト・ヒッツを買ったことだ。

そこから色々なアルバムを聴いて、今ではなかなかガチのファンである。

どれくらいファンかというと、お笑いのライブネタでフレディマーキュリーの格好のネタをするくらいだ。(それはファンなんか?)


QUEENの魅力はなんと言ってもそのバラエティ豊かさだ。まず見た目だけでも、4人しかいないのに、マンモス校の全校生徒を見てるのかと思うくらい濃密な個性がある。

またら4人全員が作曲をし、マルチプレイヤーなので、其々の個性に応じて担当楽器やヴォーカルを替えるスタイルである。強烈なメンバーの見た目に対して意外と姿勢はあくまで楽曲ファーストなのだ。(いや、マネーファーストなのかもしれない)

そして曲よりも金よりもバンドよりも彼ろが何よりも大事にしているのは本人達のモチベーションであり、その為に恐るべきミーハーなバンドである。個人的にはここがこのバンドの一番好きなところだ。流行りの音楽や興味の出た音楽に手当たりしだい食いつき、飽きたらまた次の音楽という具合である。

だから当時の評論家には駄作、ゴミ、守銭奴と死ぬほど叩かれたらしいが、私はそれが大好きである。まあこの感覚は所謂後追いファンだから持てる感覚なのかもしれない。もしかしたら私がもし当時のファンならめちゃくちゃアンチになってるのかもしれない笑


QUEENは楽曲の傾向的に・初期・中期・後期に分けられる。そしてそれぞれを別の言い方にすれば・プログレ期・ハードロック期・全員作曲期と呼べる。初期は長尺、コンセプトアルバムの形態が実にプログレ的であり、中期はバンドが本格的にシンセサイザーを導入して、ロック志向が強いロジャーやポップなディーコンの楽曲が売れ始めた頃である。そして後期はメンバーの結束を高める為に、楽曲のクレジットをQUEENにした頃である。


QUEENは不思議なバンドである。誰もが知っているQUEENの代表曲はほとんど初期の曲である。けど、バンドが一番売れていて勢いがあったのは中期で、フレディ・マーキュリーのコスプレとして擦られてる姿はほとんどバンド末期の頃の姿である。

それだけ長く人気のあったバンドだったといえばそれまでだけど、QUEENといえば?でこれだけイメージする事柄が多様なのは他のバンドにはなかなか無いと思う。


個人的に一番好きなアルバムは「QUEENⅡ」である。今まで聴いたことがないという人は是非聴いて欲しいアルバムである。従来の音楽観が犯されること請け合いである。また、プログレというブリティッシュロックの沼入門アルバムとしても

優秀である。

けど、今でもふとした時に繰り返し聴いてしまうのは「jazz」「Hot space」「THE Miracle」の3枚である。3枚とも創作意欲が明後日の方向に向かってしまったお気楽アルバムなので、大好きである。

これからQUEENを履修するという方は、ここからじゃなくて「オペラ座の夜」とか「SHEER HEART ATTACK」みたいな歴史的名盤から入ることを強くお勧めします。


てな訳で、QUEENはエェーーーヨ!!!



宗教の話

最近、とは言ってもここ1年くらい、宗教というものを信じられるということをとても素敵で羨ましいことだと思うようになった。


私は宗教の話を聞いたり調べたりすることが好きだ。しかし別に熱心ではない。

実家は曹洞宗、つまりお寺の檀家だ。

曹洞宗は全国的には少ないが、関西圏では商売人なんかを通じて割りかし多い。まあ浄土宗、浄土真宗真言宗日蓮宗臨済宗なんかと並び称されるメジャー大乗仏教だ。

あとの特色としては坐禅宗なんて言われるくらいお坊さんの修行が厳しく、お経も「ハンキリキリバッタン!」(?)みたいなやたら呪文的でメロディアスなフレーズが特徴で、法事なんかでボーっとしているとビックリしちゃったり思わず笑ってしまったりするのだ。いや、本当に申し訳ございません。


と、ここまで書いたが、私は前述の通り熱心な信者ではない。信心深くもない。

けどそれって私だけではなく、そういう人ってかなり多いんじゃないだろうか?大人になって身内が亡くなる頃に、「あ、ワテらの宗派ってどこどこなんや」って知る人も少なくないんじゃないかな?だいたいみんなそんな感じだと思う。


さて、本題に戻ると、私は宗教を信じられる人を羨ましがっているわけである。

宗教を信じる人達には、その宗派の教義が自分の行動の価値判断基準になる。

それはいわゆる倫理的な、道徳的な価値観の話であり、自分の目標や日々の行動規範でもある。

キリスト教イスラム教、ヒンドゥー教とか色々あるけど、彼らはみな彼らの許容範囲で私などよりはきちんとそれぞれの神様を信じているだろう。そして神様からのご加護を実感しているのだと思う。


私は自分で言うのも恥ずかしいが、なかなかアバンギャルドな人生を送っていると思う。敷かれたレールの上を走るなんて!なんて大それたもんじゃないけど、他の人に私の人生を送らせるのは大変だなと思う。沢山の人に迷惑をかけている。

だからふとした時にとても不安になったりする。自分の人生はこんな感じでいいのだろうか?今死んだら、「あー、まあまあ情けないけど面白い一生だったかな」って言えそうだな。でもこの先もそう言えるかな…???

とか色々考えたりする。私は幸いにも友人にはとても恵まれていて、いい人ばかりなので、私が人生の路頭に迷ってニッチもサッチもブルドッグならば親身に相談に乗ってくれるだろう。

それで充分素晴らしいし幸福なことだと思うけれども、そのみんなや私にもっと厳格な価値判断基準があるととても説得力があるような気がするのである。

宗教ってそう言う時すごく助けになるんだろうな…作品や発想のテーマにする時にも、信心ってすごい力になりそうだしな…


多分私をふくめて日本人って日本人教なんだろうなと思う。

日本人が何となく許容して来た「日本人的な」「ヤマトダマシイ」「大和撫子」みたいな感じである。

けど、これからの時代そういう封建的な感覚の支配から抜け出して、個性の時代になっていく。上司と部下、親と子みたいな枠組みが無くなってフラットになるのは魅力的な気もする一方、なんの加護もなく個性だけで生きていくというのは暗海にイカダで飛び出すようなもので、些か不安を抱かずにはいられない。(ちょっとダジャレ)

最近SNSやワイドショーの論調が妙に刺々しく攻撃的なのは、こういう時代が移り変わっていくことで生まれる不安が、ポツポツと姿を見せているという気もする。


外国の人がリバティー!って生きていけるのは、たくましく自己実現出来るのは、宗教っていう最後の駆け込み寺があるからじゃないのかな?

もう日本人教の熱烈な信者である私は、今更他の教徒にはなれない。

そしてこういう難しい時代だからこそ、私は明るく楽しく生きていきたいのである。


森会長の失言問題をお笑いの角度から考える

森喜朗JOC会長の失言問題、について昨日たまたま入った定食屋さんのテレビで特集されていた。「女性がいる会議は長引く」と言った発言をJOCの理事会で言ったとされる問題だ。


ワイドショーでは不適切発言を受けたとされる女性理事の方のインタビューや、コメンテーターが森会長の発言や感覚の、極めて時代錯誤で倫理的な問題を指摘していた。

まあ概ねその通りであると思うし、彼らの発言に異論があるわけではないが、私もなんとなくその話についてテレビを観ながらぼんやりと考えていた。そうしたら、この問題は"お笑いの観点"からも考えられないかと思った。


前にお笑いの話をしたと思うが、その点を踏まえつつ、まず前提として考えるのは、お笑いは突き詰めると全部『内輪ネタ』であるということだ。これはもうどうしたってそうなのである。

お笑いにおいて大事なことって、発想とかセンスとか表現力とか構成とか色々あるけど、やっぱりその根底には日本語を話すこと、日本で暮らしていること、日本の文化や歴史に慣れ親しんでいるということがある。それらを源泉としてお笑いが生まれると言うことは、やはりみな(そこまで広い範囲が内輪であるかはとりあえず無視して)内輪ネタであるのだ。

しかも、一番自分のお笑いレーダーを把握しているのは紛れもなく自分自身である。だれしも自分以上のお笑い人間はいないのだ。内輪も内輪、超内輪である。

でも、同じ日本人、人間でも同じ人生を歩んでいる人間は一人としていない。同じ出来事にも、人それぞれフィルターがかかる。だから、自分の感じる面白さが『伝わる』とは限らない。それが『スベる』ってことである。これがあるからお笑いって難しい…


さて、森喜朗さんの話に戻る。彼って何者なんだろうか?

元首相ではあるけども、すぐ辞めちゃったし、首相のころから失言問題とかばっかだったし、その割には色んな役職をしてるし、もう随分ご高齢だろうにJOCの会長してたり。すごいのかすごくないのかよくわからない。

いや、まあ今まで63人しかいない総理大臣になってるんだからすごい人なんだろうな。うん。

そして、彼に常について回るのは失言問題である。今回の問題に対しては女性と社会の取り組みについて機運が高まるこの時代にこんなことを言うなんて!と言う論調ではあるが、このおじいさんは今じゃなくても失言はしていたし、別に今に始まったことじゃない。めちゃくちゃ不人気だったし…

なんでそんな人が総理になれるのか…?


というと、おそらくこの人は愛されているのだ。国民にではなく仲間内で。きっと数々の失言も、国会議員の飲み会なんかでは爆笑をかっさらっていたのではないだろうか。

多分森会長は今回の発言も(よっしゃ〜、コレ言うたらウケるやろなぁ〜!)と意気揚々とぶち込んだのである。結果はダダスベり、チーン…である。

ついでに「老害が粗大ゴミになったら」云々もスベっている。悲劇的にお笑いセンスが粗大ゴミなのかもしれない。


お笑いにおいて一番大事なのは「伝える」ことである。この場合伝わらなければいけないのは、森会長の人間性のマズさではなく、面白さでなければならない。お笑いの真骨頂は負け戦をいかに綺麗に負けられるかと言うのもある。全部が全部勝戦なんてダウンタウンでも不可能、鉄は叩いて強くするのだ。


今回の問題の責任追求は森会長にあるのか、それとも森会長の下らない冗談にヘッヘッヘ〜と苦笑いをしてスベらせてこなかった議員達にあるのか。


色々書いたが所詮ブログである。「嘘を言ってもいいんだろ」